臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
坐禅会、接心、オンライン接心、行事・イベントのお知らせ。                      

喜心

2019年1月23日 at 23:23



坐禅を続けてきたおかげで、年と共に喜心を感じることが多くなってきました。有り難いことです。

坐禅は、あれこれの思いの囚われ・自我意識を脱却して、本来生かされてあるところの心源・ソースに徹底する道です。
心源・ソースに徹底すればするほど、「あるがままで大丈夫」という無条件の自信・心の安らぎ(安心)に至ります。
心が安らぎほっこり落ちついてくると、いまここに生かされてあることの喜び(喜心)をしみじみと感じるようになります。

しかし坐禅を始め見性もした2,30代は、「喜心」を感じる余裕などなく、ただ仕事上の課題に必死で取り組んでいました。当時の坐禅は、あれこれ思うことなく眼の前の課題に全身心を投げ出してひたすらに生きる「直心」を用意してくれたように思います。
直心のすえに喜心に至ったこの頃と言えるでしょうか。



静寂

2019年1月9日 at 19:32


「静寂」と書き初めにかきました。
「動中に静寂を保持する」ことが、今年のテーマです。

白隠禅師は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」と言われています。

静中の工夫は、坐禅によりあれこれの思いを離れ、心しずかにあるがままの命に落ち着き安らぐこと、即ち心源に徹すること。

動中の工夫は、日常の慌ただしい生活の最中にあっても、心静かにあるがままの命に落ち着いて、環境に左右されない不動心を養うことと言えます。
即ち「動中に心の静寂を保持する」ことです。

さて、その秘訣は何でしょう……。

一、毎朝晩十分でも坐禅を続けて、いつでも思いから自由になれる禅定力を養うこと。
二、合気道の極意と同じで、動中にあっても完全な受動態・無の器・恵みの器と成りきることです。
完全な受動態と言うと、いかにも主体性が無いようですが、自我の思いにとらわれて余計なことをせず、その時その場で求められていることを素直にすることです。

「言うは易く行うは難し」で、
私にとっては永遠のテーマです。



狂い咲き

2018年11月11日 at 21:39


   諸君、狂いたまえ!


これから冬に向かうというのに、本堂前の大島桜が咲き出しました。

いつもなら3月中旬の春の訪れに咲き出すのですが‥‥

たぶん、この間の台風の潮風で一斉に葉が落ちきってしまったことと、11月とは思えないこの頃の暖かさが原因なのでしょう。


狂い咲きと言えば、

吉田松陰は「諸君、狂いたまえ。」と言い、自らを狂愚とよんだそうです。

「狂」は積極的に何事かを進み取り行動することに鋭く。
「愚」は逃げることを知らない馬鹿正直な人間という意味のようです。

まさに吉田松陰の生き方そのもを体現したかのような言葉です。


確かに、大きな成功をおさめた事業家や発明家は、どこか常軌を逸した狂ったような行動をしています。


平凡に安穏と生きるのも良いですが、

限りある人生、狂ったように生きるのも面白いかも知れません。


【追伸】
ブログ配信の文章がなかなか思いつかなくって困っています。

何か同じことばかり言っているようで(^。^;)

そこで今回からは、今週の禅語・名言というテーマで配信することにします。

直心是道場

2018年11月2日 at 08:12



  直心是道場(じきしんこれどうじょう)

人生で師と仰げるような素晴らしい人に出会えるのは、とても幸せなことです。

感動をもって人に出会う。
その出会いの充実した楽しい一時は、思い出しても懐かしくうれしく、何よりも生きる励みとなり自分を成長させてくれます。

妙心僧堂で雪丸令敏老師に相見したあと、貴布祢の料理旅館でご馳走になったうえ京都駅までタクシーで送っていただきました。

親しくお側に居させていただいたのは数時間ですが、
「やっぱり、この老師は素晴らしい、師と仰ぐべし!」と思いました。

おそらく20代の雲水時代から今日までの約60年間、ほとんどが僧堂生活で一貫して修行を続けてこられたのでしょう。その刻苦の修行もさることながら、命直(いのちじか)づけの修行が徹底されていると感じました。

中学を出てすぐに大工修行に入り、縁あって二十歳の頃に出家し修行を続けられたようですから、知的に字面で学ぶより、身心一如の境地で命直づけの学びに徹底できたのだろうと思います。字面で多くのことを知って語れる人は多いでしょうが、語らずとも体得し実践している人は少ないものです。

タクシーの運転手さんよりも京都の道に詳しかったり、女将さんや仲居さん他多くの縁のある人のことを家族のように覚えていて「誰それはどうしてる?」と、気さくに親しく声をかけながらチップをはずまれる御本人は、雲水でも外出には着ないようなパッチワークの作務衣なのですから、自らは清貧にして利他行を楽しんでおられるのだと感心しました。

学は自得を貴ぶ。人いたづらに目を以て有字(うじ)の書を読む、故に字に局し、通透(つうとう)することを得ず。まさに心を以て無字(むじ)の書を読むべし、すなわち洞(とう)して自得するところ有らん。
                   ー南洲手抄言志録


天地自然の営みや人々の生活の現場は、
万巻の有字の書にまさる活きた汲めども尽きない無字の学びの書です。

その無字の書を読む秘訣は、
「直心是道場」と禅語にあるように、
素直で柔軟な物や人と一つに溶けあう心です。

坐禅は、数息観三昧あるいは無字三昧になって、心を純化・浄化して安楽の境地に至り、直心を養う行です。