臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
坐禅会、接心、オンライン接心、行事・イベントのお知らせ。                      

歎異抄①

2020年11月7日 at 21:28

来週から親鸞聖人の「歎異抄」を味読します。
今回は、その序章です。西田幾多郎、三木清、司馬遼太郎、ほか多くの人が「歎異抄」を絶賛しています。二十世紀最大の哲学者といわれる、ドイツのマルティン・ハイデガーがここまで言っているとは!

https://youtu.be/JyaRGBV2Pg4?t=306

無分別智

2020年10月24日 at 22:18
2020年10月24日 : YouTube配信
YouTube “Zen breeze”で「智慧」について配信しました。
「智慧」は、普通に言われる頭が良いとかいうのではなく、むしろ自分はバカだなあ、考えることが自己中でみみちいなと自覚して、神仏に祈り訪ねるところに開けてくるものです。
I delivered on YouTube “Zen breeze” about the “Wisdom of prajna”. The “Wisdom of prajna” is not the state to be smart, but rather that you think yourself stupid.


https://youtu.be/Yd2JVT7yPHI?t=405

何も恐れることのない自信

2020年7月25日 at 09:41


真言三昧

2018年11月29日 at 09:29


真言とは、
梵語のmantraで、いつわりのない真実の言葉。密教で、仏・菩薩などの真実の言葉ということです。
私は、心の源(ソース、神仏)より出でて、また心源に回帰する、
あれこれの思い分別にとらわれない真実の言葉。あるがままの地平に着地して、自他ともに真実にして幸福に生きる心の筋力・原動力となる言葉ととらえています。

真言は、弘法大師・空海が虚空蔵菩薩の真言を100万回以上唱え、超人的な記憶力を授かったと伝えられるように、日々何回も唱えることで威力を発揮します。
何万回と唱え続けることで、心の土壌が深層から素晴らしく改良され滋味豊かになるわけです。

私たちが日常生活で簡単に唱えることができる真言は「アスモ真言」
「アりがたい、スばらしい、モったいない」の、感謝と賛嘆と畏敬の言葉です。

その他、「いってきます、ただいまかえりました、いただきます」など、自分も周りの人も元気にハッピーな気持ちになる言葉は真言といえます。大切なことは、心をこめ慈しみと愛をもって、発声することです。

70を超えると、健康寿命をいかに保つかが一番重要なテーマと思い、この頃、作務なんかで疲れた時は近くのスーパー銭湯によく行って身心をリフレッシュしています。

お湯につかって
     「ああ、ありがたい!」

露天風呂から満月を拝んで
     「ああ、すばらしい!」

食事をいただいて
     「ああ、もったいない!」と小声で言います。

この「アスモ真言」をいつも言っているおかげで、限りない天地の恩愛、あるがままにただ在るところの浄福を、より深く感じるようになりました。

真実にして幸福な人生は、「アスモ真言」の感謝と賛嘆と畏敬をベースに生きるところにあります。

自己の定義

2018年9月27日 at 07:16



人は誰でも自分の人生を小説を書くように描き、そのストーリーを日々の生活で実現しています。

ただ漫然と生きているだけという人は、ただ漫然と生きるというストーリーを選択していますし、大リーガーになるという明確なストーリーを描いた人は、結果はどうあれそのストーリーの実現に向かって日々努力するわけです。

実際の人生はすでに出来上がった小説ではありませんから、本人にもどう展開していくか分からない面白さがあります。


流動的で予測しがたい実人生を力強く前向きに展開していく原動力となるのが、現在から未来に向けて、自分が何者であろうとするのかという自己定義と気迫です。


経営学の泰斗・ドラッガーは『マネージメント』において、「われわれの事業は何か」を問い、その時々で事業内容をしっかりと再定義することがマネージメントの根本であると説いています。
事業体と同じく個人も、「自分は何者か」という自己定義を明確にし、自分の人生を自分自身でコントロールしマネージすることが、日々愉快に活き活きと生きる原動力になります。

その力強い推進力がないと、お節介な人や組織の干渉、あるいはマインド・コントロールで、主体性のないお仕着せの人生になってしまいます。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾はいくなり(西田幾多郎)」の、お互いに自由で自立した人生でありたいものです。

自己定義と言っても、難しく考えることはありません。

「孫に好かれる、可愛いばーばー」でも、素晴らしい自己定義です。
大事なことは、縁のある周りの人たちや社会を、より良くハッピーにするような定義であることです。


ドイツに禅の布教に行きはじめた頃、瀬戸内海の海にかかる美しい虹をみて、ふと思いついた自己定義が、

「Rainbowzenmonk,レインボー・ゼン・モンク」(虹の禅僧)です。

禅の道で、日本とドイツの架け橋であろうと決意した時でした。

この自己定義を基に、自分が何をすべきかの課題も明確になり、おかげでドイツ人兄弟弟子と参禅を通して友情を育みながらの充実した人生が展開しました。


この地球上でただ独りの自分の自己定義は、人生の節目節目において、自分の肚で決めていかねばなりません。

そのためには、坐禅や瞑想で、社会からも離れた孤独な地平に身をおき自己に沈潜して、自分が何者であろうとするかを自分自身に問う作業が不可欠です。


さて、「貴方は何者」であろうとしていますか?


無限大を味方にしよう!

2018年9月12日 at 15:56

無限大の命を味方にしょう!

風水害に地震と、いたるところで災害が発生しています。
お互い無事に生活できているだけでも有り難いと感謝するこの頃です。

自然災害の多い日本ですが、人的災害は少なく、犯罪率(暴行、強盗、殺人等)はシンガポール、ルクセンブルグについで第3位の安全な国のようですし、犯罪件数も警察庁の統計によると近年は減少傾向にあるようです。
街でも親切な人ばかりだなと感心します。このような日本人の民度の高さは、誰もが口にする「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉が象徴しているようです。
 
「おかげさまで」は、目に見えない神仏やご先祖の大きな命に包まれ生かされて生きているという意味です。

「おたがいさま」は、この社会はもちつもたれつお互いに支え合って生かされて生きているという意味です。

空気・水・太陽・食物・建物・パソコン等々の自然の恵みや高品質の物、先祖・恩師をはじめ多くの日本人の誠実な努力の継承、さらに目に見えない不可思議な力と、「おたがいさま、おかげさま」の恩愛は限りがなく無限大(∞)です。
それに比べて、「私が、私の」と思う自分はたった(1)つの命です。

真実にして幸福な人生は、自分一己の力などとるに足りない、「おかげさま、おたがいさま」の大いなる命に「生かされている」という実感と感謝の気持ちが土台となります。

すなわち、一己の命からシフトして無限大(∞)を生きることです。無限大の命を味方にするわけです。

日本を代表する禅の哲学者・西田幾多郎は「宗教は個人の意識上の事ではない、それは歴史的生命の自覚にほかならない」と述べていますが、歴史的生命とは私たちを生かしめている無限大の命にほかなりません。

禅や西田哲学が世界的に注目されているのは、「生かされて生きている」という歴史的生命の自覚・感謝の心なしには、真実にして幸福な人生や社会はありえないからです。

佇まいの美

2018年7月18日 at 19:21
佇まいの美①

今年の2月28日、103歳で大往生された前方広寺派管長・大井際断老師は、たたづまいの美しい人でした。
本堂に出頭された時も、書斎でくつろいでおられる時も、あるいはその書かれた墨跡にも「佇まいの美」が感じられました。

老師の長寿の秘訣は、何よりも自然体の佇まいの美しさに集約されていたと思います。

弟子の私自身はまだまだ不作法で、「たたずまいの美しい老僧になる」ことが、これからの課題だと気づきました。
その気づきを促してくれたのが、「たたずまいの美学ー日本人の身体技法」(矢田部英正著、中公文庫)です。

最近読んだこの本は、まさに目から鱗が落ちるような内容でした。少し長くなりますが「佇まいの美」についての著者の文章を紹介しましょう。

 人間は時として花のように存在し、山のように存在することがある。身体という自然性を本来的に備えた人間が、風景という自然のなかへ溶け込んでゆくような存在のあり方、あるいは身体の中へ花や山といった自然を取り込んでしまったかのような印象を表出する身体のあり方、このような人間の存在様態を日本人は「風姿」という言葉で表現してきた。そこで描かれているものは「肉体の均整」にもとづく美感ではなく、姿勢・動作から表出される「存在の印象」である。
 これを形づくる身体的な根拠というのは、たとえば一片の「しぐさ」が伝えるところの心の細やかさであったり、坐っている後ろ姿から無言の内に放たれる「存在の重み」であったり、歩く姿や挨拶の仕方からにじみ出てくる「慎ましい態度」や「忠実な想い」などである。



著者は、日本人としての文化の継承に、「型」の訓練により「感覚」を伝承してきた日本人の「身体技法」の体系が多くを担ってきたと述べています。

そこで次回は、禅が伝承してきた型について考察してみたいと思います。