臨済宗方広寺派 祥光寺和尚  向令孝和尚が、
いま風の時代に"いまここ道場"を開設。禅の心をお伝えしています。
坐禅会、法話、接心、リトリート等のお知らせ。                      

禅の真髄

2020年12月19日 at 21:55
19.12.2020 Zen Breeze (親鸞聖人の生涯、The Life of Shinran⑥:禅の真髄、the essence of “Zen”)
今回はずばり「禅」の真髄について配信しました。
そして、法話は日本語と英語を一週間交替でお伝えすることにしました。
This time I have delivered the essence of “Zen”.
And I decided to speak Dharma Talk alternately in Japanese and English every other week.

: YouTube”A Zen YouTube”A Zen breeze””

2020年11月28日 at 21:52
2020年11月28日(土): YouTube”A Zen breeze”
今回は「親鸞聖人の夢のお告げ」について配信しました。この夢告は、親鸞聖人にとっても日本の仏教にとっても画期的なものです
。This time, I delivered about “Shinran Saint’s Dream oracles”. This dream announcement is epoch-making for both Shinran saints and Japanese Buddhism.

歎異抄②

2020年11月10日 at 08:34
2020年11月14日(土): YouTube”A Zen breeze”配信
今回は「親鸞聖人の出家」について配信しました。
幼少期が「方丈記」に記された時代と重なるのですね。
おかげさまで、新しい発見や学びがあります(^0^)


https://youtu.be/jh-ksU6W11g?t=110


The Life of Shinran ― (From the HIGASHI HONGANJI website)
Birth and Spiritual Transformation
Shinran was born in 1173 in the village of Hino, near Uji, Kyoto as the first son of Fujiwara (Hino) Arinori. It was the time when the aristocratic Heian period (794-1185) was coming to an end and the age of the warrior was just beginning, as the Genji and Heike clans were fighting each other.

At the age of nine, Shinran received ordination at Sh?ren-in (a temple of the Tendai denomination) at Awataguchi (Higashiyama, Kyoto), with the name of Hannen and entered upon the Buddhist path. Later, he went to Mt. Hiei, the center of the Tendai denomination and single-mindedly devoted himself to Buddhist studies.

In spite of twenty years of such endeavors however, Shinran could not find the way to overcome suffering and anxiety. In his turmoil, he secluded himself in Rokkaku-d? temple (Kyoto) and while there, had a profound spiritual experience. As a result, he was able to meet H?nen (1133-1212) who was then living in Yoshimizu at Higashiyama. There, Shinran encountered the teaching, “Just say the Nenbutsu, and be saved by Amida,” and began to walk along the Nenbutsu Path of the Primal Vow. He was twenty-nine years old at that time.

Persecution
Many people gathered around H?nen, regardless of differences in status and position. This, however, caused friction with the long-standing Buddhist establishments, and in 1207, H?nen was exiled to Tosa province (present-day K?chi prefecture), and his disciples were either sentenced to death or exiled. Shinran (35 years old) was exiled to Echigo province (present-day Niigata prefecture) with the secular name of Fujii Yoshizane. He never saw his teacher H?nen again.
Sharing the Dharma
Taking his exile as an opportunity, Shinran resolved anew to live in the Nenbutsu teaching, and regarded himself as an “ignorant bald-headed disciple of the Buddha.” He married Eshinni, and while living among the local people, he shared the Nenbutsu teaching with them. Although he was pardoned five years later, Shinran, knowing of the death of H?nen, did not return to Kyoto, but instead headed toward the Kant? area (the region, surrounding present-day Tokyo) with his family. Through living in such places as Shimotsuma, Kojima, and Inada (all in present-day Ibaraki prefecture), he shared the Nenbutsu teaching with many people.

Returning to Kyoto
After living in the Kant? area for about twenty years, Shinran, in his early sixties, returned to Kyoto. Just around that time, he finished compiling his major work, the Ken J?do Shinjitsu Ky?gy?sh? Monrui (popularly known as Ky?gy?shinsh?), which he had been working on for about ten years. Even without a permanent residence in Kyoto, he enthusiastically continued his writings, including the Song? Shinz? Meimon (The Inscription on the Sacred Name and Images) and the Sanj? Wasan (The Triple Hymns). He completed these writings to clarify and hand down the path he had encountered through H?nen, so that all people could be saved equally together.
Further, through writing letters, Shinran continued to convey the Nenbutsu teaching to his fellow practitioners (d?gy?) in the Kant? area. At the same time, they visited him in Kyoto continuously, and he confirmed this teaching with them.


The Final Days of Shinran
On November 28, 1262, Shinran’s ninety years of life ended while his youngest daughter, Kakushinni, and his followers were caring for him. In spite of hardships, he lived life totally entrusting himself to Amida’s Primal Vow and clarifying the true teaching of the Pure Land, through encountering his teacher, H?nen.


親鸞聖人のご生涯
誕生と出家(9歳)

1173(承安3)年、親鸞聖人は、京都にお生まれになりました。父である日野有範(ありのり)は朝廷に仕える役人でしたが、母についてはさだかではありません。
9歳の時、親鸞聖人は、後の天台座主・慈円のもとで出家されます。それから20年もの間、比叡山延暦寺できびしい修行と学問にはげまれました。しかし、どれだけ修行と学問にはげんでも、さとりを開く道を見出すことはできませんでした。

法然上人とのであい(29歳)
親鸞聖人は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もられました。そして、95日目の暁、聖徳太子の夢告にみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。
法然上人のもとで、親鸞聖人は約6年間過ごされました。その間に、法然上人から主著『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』の書写と真影(法然上人の肖像画)の製作を許されました。また、恵信尼公と出会い、結婚されたのもこの頃とされています。

越後・関東での生活(35歳から60歳ごろ
法然上人の念仏の教えには、親鸞聖人だけでなく、老若男女、身分を問わず、たくさんの人々が帰依されました。しかし、興福寺や延暦寺などの他宗から強い反発を受け、ついに朝廷が弾圧に踏み切ります。その結果、4人が死罪、8人が流罪というきびしい処罰が下され、法然上人は土佐(現在の高知県)へ、親鸞聖人は越後(同 新潟県)へ流罪となりました。親鸞聖人35歳の時でした。
5年後、流罪が許された親鸞聖人は、法然上人の死を知ると、京都には戻らず関東へ向かわれました。そこで約20年間滞在し、常陸(ひたち 茨城県)の稲田を中心に、念仏の教えを広く伝えていかれました。
また、この地において、主著『顕浄土真実教行証文類けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『教行信証』)を書き始められたとされています。

京都での生活(60歳ごろから90歳)

親鸞聖人は、60歳ごろ関東から京都に戻られたといわれています。
その後、関東では念仏の受けとめをめぐって、様々な混乱や対立がおこりました。そのなかで、誤った教えを広めた長男の慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)と親子の縁を切るという悲しい出来事もありましたが、親鸞聖人は、『教行信証』を書きすすめるとともに、終生同朋・同行に手紙や書物を送り、念仏の教えを伝え続けられました。
1262(弘長2)年11月28日、親鸞聖人は90年の生涯を終えられました。末娘の覚信尼公ら家族や門弟たちが、死を看取り、葬儀を行ったといいます。

TANNISHO
Preface

As I privately cast my foolish mind over the time when Master Shinran was alive and compare it with the present day, I cannot help lamenting that there are deviations from what the master taught us directly about true faith. I am concerned that doubts and confusion will arise in the study and transmission of his teaching. How is it possible, without being fortunate enough to encounter a good teacher, to obtain salvation through other-power faith?
Private opinion must not be allowed to distort the true meaning of *other-power.
With this in mind I have noted down a few of Master Shinran’s unforgettable sayings, which still echo in my ears. My sole wish is to dispel the doubts of fellow Shinran followers.
*other-power: Shinran explained in the Kyogyoshinsho that Other Power is the Power of Tathagata’s Vow.

ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか?1易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもつて、?2他力の宗旨を乱ることなかれ。
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなり。
?1易行:顕示難行陸路苦(けんじなんぎょうろくろく)信楽易行水道楽(しんぎょういぎょうしいどうらく)難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。―『正信偈』
【現代語訳】龍樹菩薩は、難行道は苦しい陸路のようであると示し、易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる。 
?2他力:「他力というは、如来の本願力なり」―『教行信証』

意訳
ひそかに愚かな思いを廻らし、親鸞聖人ご在世と、今日をみるに、直に聖人のご教授なされ た真実信心と、異なることが説かれているのは、嘆かわしい限りである。
これでは、正しく聖人の教えを学び、お伝えするのに、 惑いや疑いが生じはしないかと案じられる。  
かかるとき、幸いに善き師に遇わずば、どうして他力易行の信心を獲ることができようか。   決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。
このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。
これひとえに志を同じくする、親鸞学徒の不審を晴らしたいからに 外ならない。
                       ―高森顕徹. 歎異抄をひらく



ユーチューブページ

歎異抄①

2020年11月7日 at 21:28

来週から親鸞聖人の「歎異抄」を味読します。
今回は、その序章です。西田幾多郎、三木清、司馬遼太郎、ほか多くの人が「歎異抄」を絶賛しています。二十世紀最大の哲学者といわれる、ドイツのマルティン・ハイデガーがここまで言っているとは!

https://youtu.be/JyaRGBV2Pg4?t=306

無分別智

2020年10月24日 at 22:18
2020年10月24日 : YouTube配信
YouTube “Zen breeze”で「智慧」について配信しました。
「智慧」は、普通に言われる頭が良いとかいうのではなく、むしろ自分はバカだなあ、考えることが自己中でみみちいなと自覚して、神仏に祈り訪ねるところに開けてくるものです。
I delivered on YouTube “Zen breeze” about the “Wisdom of prajna”. The “Wisdom of prajna” is not the state to be smart, but rather that you think yourself stupid.


https://youtu.be/Yd2JVT7yPHI?t=405

何も恐れることのない自信

2020年7月25日 at 09:41


真言三昧

2018年11月29日 at 09:29


真言とは、
梵語のmantraで、いつわりのない真実の言葉。密教で、仏・菩薩などの真実の言葉ということです。
私は、心の源(ソース、神仏)より出でて、また心源に回帰する、
あれこれの思い分別にとらわれない真実の言葉。あるがままの地平に着地して、自他ともに真実にして幸福に生きる心の筋力・原動力となる言葉ととらえています。

真言は、弘法大師・空海が虚空蔵菩薩の真言を100万回以上唱え、超人的な記憶力を授かったと伝えられるように、日々何回も唱えることで威力を発揮します。
何万回と唱え続けることで、心の土壌が深層から素晴らしく改良され滋味豊かになるわけです。

私たちが日常生活で簡単に唱えることができる真言は「アスモ真言」
「アりがたい、スばらしい、モったいない」の、感謝と賛嘆と畏敬の言葉です。

その他、「いってきます、ただいまかえりました、いただきます」など、自分も周りの人も元気にハッピーな気持ちになる言葉は真言といえます。大切なことは、心をこめ慈しみと愛をもって、発声することです。

70を超えると、健康寿命をいかに保つかが一番重要なテーマと思い、この頃、作務なんかで疲れた時は近くのスーパー銭湯によく行って身心をリフレッシュしています。

お湯につかって
     「ああ、ありがたい!」

露天風呂から満月を拝んで
     「ああ、すばらしい!」

食事をいただいて
     「ああ、もったいない!」と小声で言います。

この「アスモ真言」をいつも言っているおかげで、限りない天地の恩愛、あるがままにただ在るところの浄福を、より深く感じるようになりました。

真実にして幸福な人生は、「アスモ真言」の感謝と賛嘆と畏敬をベースに生きるところにあります。

自己の定義

2018年9月27日 at 07:16



人は誰でも自分の人生を小説を書くように描き、そのストーリーを日々の生活で実現しています。

ただ漫然と生きているだけという人は、ただ漫然と生きるというストーリーを選択していますし、大リーガーになるという明確なストーリーを描いた人は、結果はどうあれそのストーリーの実現に向かって日々努力するわけです。

実際の人生はすでに出来上がった小説ではありませんから、本人にもどう展開していくか分からない面白さがあります。


流動的で予測しがたい実人生を力強く前向きに展開していく原動力となるのが、現在から未来に向けて、自分が何者であろうとするのかという自己定義と気迫です。


経営学の泰斗・ドラッガーは『マネージメント』において、「われわれの事業は何か」を問い、その時々で事業内容をしっかりと再定義することがマネージメントの根本であると説いています。
事業体と同じく個人も、「自分は何者か」という自己定義を明確にし、自分の人生を自分自身でコントロールしマネージすることが、日々愉快に活き活きと生きる原動力になります。

その力強い推進力がないと、お節介な人や組織の干渉、あるいはマインド・コントロールで、主体性のないお仕着せの人生になってしまいます。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾はいくなり(西田幾多郎)」の、お互いに自由で自立した人生でありたいものです。

自己定義と言っても、難しく考えることはありません。

「孫に好かれる、可愛いばーばー」でも、素晴らしい自己定義です。
大事なことは、縁のある周りの人たちや社会を、より良くハッピーにするような定義であることです。


ドイツに禅の布教に行きはじめた頃、瀬戸内海の海にかかる美しい虹をみて、ふと思いついた自己定義が、

「Rainbowzenmonk,レインボー・ゼン・モンク」(虹の禅僧)です。

禅の道で、日本とドイツの架け橋であろうと決意した時でした。

この自己定義を基に、自分が何をすべきかの課題も明確になり、おかげでドイツ人兄弟弟子と参禅を通して友情を育みながらの充実した人生が展開しました。


この地球上でただ独りの自分の自己定義は、人生の節目節目において、自分の肚で決めていかねばなりません。

そのためには、坐禅や瞑想で、社会からも離れた孤独な地平に身をおき自己に沈潜して、自分が何者であろうとするかを自分自身に問う作業が不可欠です。


さて、「貴方は何者」であろうとしていますか?


無限大を味方にしよう!

2018年9月12日 at 15:56

無限大の命を味方にしょう!

風水害に地震と、いたるところで災害が発生しています。
お互い無事に生活できているだけでも有り難いと感謝するこの頃です。

自然災害の多い日本ですが、人的災害は少なく、犯罪率(暴行、強盗、殺人等)はシンガポール、ルクセンブルグについで第3位の安全な国のようですし、犯罪件数も警察庁の統計によると近年は減少傾向にあるようです。
街でも親切な人ばかりだなと感心します。このような日本人の民度の高さは、誰もが口にする「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉が象徴しているようです。
 
「おかげさまで」は、目に見えない神仏やご先祖の大きな命に包まれ生かされて生きているという意味です。

「おたがいさま」は、この社会はもちつもたれつお互いに支え合って生かされて生きているという意味です。

空気・水・太陽・食物・建物・パソコン等々の自然の恵みや高品質の物、先祖・恩師をはじめ多くの日本人の誠実な努力の継承、さらに目に見えない不可思議な力と、「おたがいさま、おかげさま」の恩愛は限りがなく無限大(∞)です。
それに比べて、「私が、私の」と思う自分はたった(1)つの命です。

真実にして幸福な人生は、自分一己の力などとるに足りない、「おかげさま、おたがいさま」の大いなる命に「生かされている」という実感と感謝の気持ちが土台となります。

すなわち、一己の命からシフトして無限大(∞)を生きることです。無限大の命を味方にするわけです。

日本を代表する禅の哲学者・西田幾多郎は「宗教は個人の意識上の事ではない、それは歴史的生命の自覚にほかならない」と述べていますが、歴史的生命とは私たちを生かしめている無限大の命にほかなりません。

禅や西田哲学が世界的に注目されているのは、「生かされて生きている」という歴史的生命の自覚・感謝の心なしには、真実にして幸福な人生や社会はありえないからです。

佇まいの美

2018年7月18日 at 19:21
佇まいの美①

今年の2月28日、103歳で大往生された前方広寺派管長・大井際断老師は、たたづまいの美しい人でした。
本堂に出頭された時も、書斎でくつろいでおられる時も、あるいはその書かれた墨跡にも「佇まいの美」が感じられました。

老師の長寿の秘訣は、何よりも自然体の佇まいの美しさに集約されていたと思います。

弟子の私自身はまだまだ不作法で、「たたずまいの美しい老僧になる」ことが、これからの課題だと気づきました。
その気づきを促してくれたのが、「たたずまいの美学ー日本人の身体技法」(矢田部英正著、中公文庫)です。

最近読んだこの本は、まさに目から鱗が落ちるような内容でした。少し長くなりますが「佇まいの美」についての著者の文章を紹介しましょう。

 人間は時として花のように存在し、山のように存在することがある。身体という自然性を本来的に備えた人間が、風景という自然のなかへ溶け込んでゆくような存在のあり方、あるいは身体の中へ花や山といった自然を取り込んでしまったかのような印象を表出する身体のあり方、このような人間の存在様態を日本人は「風姿」という言葉で表現してきた。そこで描かれているものは「肉体の均整」にもとづく美感ではなく、姿勢・動作から表出される「存在の印象」である。
 これを形づくる身体的な根拠というのは、たとえば一片の「しぐさ」が伝えるところの心の細やかさであったり、坐っている後ろ姿から無言の内に放たれる「存在の重み」であったり、歩く姿や挨拶の仕方からにじみ出てくる「慎ましい態度」や「忠実な想い」などである。



著者は、日本人としての文化の継承に、「型」の訓練により「感覚」を伝承してきた日本人の「身体技法」の体系が多くを担ってきたと述べています。

そこで次回は、禅が伝承してきた型について考察してみたいと思います。