献身献身

「献身」と書き初めしました。
身も心も仏に捧げるという献身の心のベクトル(方向性)、心意気を養うことが、真実に幸福に生きる道です。
坐禅をしたり「ナムアミダブツ」と禅会で唱えるのも、この献身の心意気を養うことです。
この場合の仏とは万法、ワンネス、全体生命、宇宙生命、あるいは実在とも言われる根源的生命です。
人間の悩みや迷い苦しみは、自己ありという自我意識にとらわれ、自我の思い価値観を先立てて、現実を何とか自分の思い通りにしようとするところから生まれます。
大切なことは、先ずあるがままの現実を、そのままあるがままに受けとめることです。
あるがままの現実といっても、目の前の見たり聞いたりできる範囲の目先の現実だけではありません。目先の現実を包み込んであるところの全体生命です。
目先の現実をみるのが「見の目」とすると、全体生命をみる心の眼が「観の目」です。
宮本武蔵が『五輪書』で「眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」と言っていますが、人生全般に通ずる名言です。
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師匠の前方広寺管長・大井際断老師は入室参禅のたびに、
“天地一杯の無になりきってこい!”と言われました。
天地一杯の無に成りきれば成りきるほど、全体生命・宇宙生命を感得する「観の目」が開けてきます。
献身のベクトル(方向性)は、今ここのあるがままの全体生命に他なりません。全体生命は南無阿弥陀仏の無量光であり無量の命ですから無限大です。
無我の「献身」は、無限大の命に運ばれる真実にして幸福な確かな道です
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