臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
坐禅会、接心、オンライン接心、行事・イベントのお知らせ。                      

徳行のすすめ

2019年12月22日 at 20:46

お知らせ

2019年12月21日 at 16:46

「延命十句観音経」の勧め

2019年9月21日 at 19:32
 
 母が8月16日の昼過ぎ、近くの老人ホームで他界しました。享年95歳でした。

 亡くなった日の朝、ホームに面会に行って声をかけてみましたが、あまりすやすやと眠っているので、そのまま起こさずに帰りました。息を引き取った後の顔も朝と変わらず安らかな良い顔でした。

 面会に行く時は、母が大好きでしかも喉に通りやすいフルーツゼリーを定番に持参しました。
1ヶ月ぐらい前まではそれを完食していましたが、やがて半分になり、3割になりと次第に食欲がなくなってきて、1日前はスプーンに2,3杯も食べると、うとうとと眠ってしまいました。
16日朝は、「お母さん、フルーツゼリー食べる?」と声をかけても目をしばしばさせるぐらいで眠ったままなので、
ぼちぼちかなと感じていましたが……。

 私にとって母の最期の数週間の看取りは、とても貴重な経験でした。
読経、特に「延命十句観音経」の功徳を、母が実証し教えてくれたと実感しているからです。

 「延命十句観音経をとなえると、長生きできるよ」と、たまに母と唱和したりしました。
亡くなる数日前からは、小声で唱えながら母の手や胸をさすりました。
いかにも心地良さそうにすやすやと眠っていましたから、読経する心の波動は伝わっていたのだと確信しています。

母が他界しても、不思議なくらい悲しみはありません。
ただ、父が46歳で急死してから、女でひとつで私と妹を上の学校までやってくれた苦労を想うと、感謝の気持ちで一杯になり泣けてきました。
老衰による眠るがごとき大往生だし、
禅修行のお陰で、日頃から生死を超えた大道に生かされているという実感があるからかも知れません。 

 読経の功徳は肉親の看取りということだけではなく、
自分自身の雑念をはらい、心を安らかにし、肯定的で前向きな命の波動に導いてくれます。

まずは、簡単でしかも大いに功徳があると白隠禅師も勧めている「延命十句観音経」を日々唱えることをお勧めします。

Shin Gen

2019年6月20日 at 12:15


“Shin Gen”

We are already living the boundless life including the universe.

We call the Life “Zen Shin: Zen life, or “Shin Gen: the source of life”.

My master Oi Saidan Roshi said many times, “Become the universal life of Mu!” at his Dokusan room.
Of course, Mu is not emptiness but the boundless life including the universe.

Ku Kai, Kobo Daishi , who was the founder of the Shingon School of Japanese Buddhism, said ,

“When the straggling thoughts stop, Shin Gen becomes calm and all the virtues already existing deep inside can be realized as splendid activities of love, wisdom, courage, foreseeing, etc.

Zen is the way to reach the root of it and enjoy the spring of spiritual energy welling up from the bottom of the Life.

独歩青天

2019年6月15日 at 17:20


人間の成長過程をたどってみると

誰でも「オギャ!」と赤ん坊で生まれ、
2歳ぐらいになると、
「私のママ」「私のオモチャ」というように、「私」という自我意識が芽生え「私」にとって大切な絆を意識するようになります。
「三つ子の魂、百まで」と言われるように、この時期に無条件の愛情に育まれることは、健全に成長するうえでとても大切です。

さて、次の第2ステップの少年期から青年期にかけての課題は「自立」です。

自らの自由意志をもって「自分で生きる」という積極的な生き方に転換することです。

特に青年期は孤独で不安なものです。今までの家族との絆から決別して「青年は旅に出る」ものですから。
親も、昔から「可愛い子には旅をさせよ」と言うとおり、一度居心地の良い家庭から我が子を外に放り出す勇気が求められます。

青年期の課題は、この不安・孤独を克服する自立の新たな根拠・土台を確立することです。

青年期に自立の土台がしっかりと形成されないと、世間の目を意識しすぎたり、会社等の所属する組織に飲みこまれたりしてしまいます。

言うまでもなく、世間も組織も究極のところ当てにはなりません。
残念ながら多くの人は、自我意識から脱することが出来ず、他を意識しすぎて世間や所属する組織から承認されることが安心の根拠となっているようです。

40~64歳の引きこもりが61万人を超えているそうですが、世間から自立し世間の価値観から自由になっていれば、引きこもりも引きこもりではなく、一次的な社会からのピットインとして英気を養うきっかけになるはずです。

「独歩青天」の真に自立した自由な人間となるには、先ず世間や組織から自立し、孤独に自己に沈潜し、自我の意識のあれこれの思いの届かない心の源(ソース)に立ち返ることです。

神仏は不可思議な心源にこそ居まします。

人間にとっての究極の拠り所・自立の根拠は、今も昔も心源の精神性にしかありません。

禅の修行は、その心源に徹する最短の道ですが、一般の人にはハードルが高いかもしれません。

でも、心源の精神性を体得することは誰にでもできます。

自分を支えてくれている天地の限りない命に気づき、感謝し賛嘆することです。

「ア・ス・モ」の真言を常日頃唱えることです。

「ありがたいな! すばらしいな! もったいないな!」と、日々暮らことです。


すなわち、悠久の天地を自立の根拠とすることです。

Two nice old men

2019年6月9日 at 20:50

There are two nice old men whom I love and respect very much.

After my master Oi-Saidan Roshi passed away, these two old men have become my next masters privately. Both of them are 83, and 10 years older than me.


One is Yukimaru Reibin Roshi who is a Zen Master of Myoshinji Zendo in Kyoto and my Dharma brother.


The other is Kakisaka Mikinosuke Guuji who is the chief priest of the Tenkawa Benzaiten Shrine.

I respected them especially for their basic life postures of devotion “Ken Shin” to the way.

For long time Yukimaru Roshi have practiced Zen Way as same as young Zen Monk “Unsui” in Zendo.

Kakisaka Guuji have gotten up at 3 o’clock to perform his ablutions “Misogi” to pray.

Their behavior of hospitality “Omotenashi” are very natural and many people have deeply touched by their “Omotenashi” spirits.

I feel their “Omotenashi” spirits come up their basic life posture of “Kenshin”.

They must accept all beings as Godhood or Buddhahood.


柿坂宮司のこと

2019年6月6日 at 19:58



「私は人様のいうことは聞かないけれど、

         神様のいうことは素直にきくのです」


柿坂宮司の著書「たいらけく やすらけく」の帯にある言葉です。

私は柿坂宮司に惚れていて、この1日から4日まで、奈良県吉野郡天川村坪内での瞑想・坐禅・地護摩焚き等の神仏融合のリトリートで再会し、その思いを新たにしました。

そこで、今回は柿坂宮司のことを紹介しましょう。

(プロフィール)
昭和12年生まれ。奈良県吉野郡天川村に、七人兄弟の末っ子として誕生。若い頃には南米アマゾンで暮らしたり、世界中を旅して、現地の人々の祈りの儀式などを実際の体験で学ぶ。その後、さまざまな仕事を経験しながら、父が宮司を務めていた天河神社で、掃除人として日々掃除に明け暮れる。1966年、大峯本宮天河大辨財天社第六十五代宮司に就任し、現在に至る。

その人となりは、阿部敏郎さんがブログ(https://abetoshiro.ti-da.net/)で紹介していますので、引用させてもらいます。


毎回のように感じるのは、柿坂さんのおもてなしの心です。

おもてなしの心は仕事でもプライベートでも不可欠ですが、ともすればそれが成功の手段になっていたり、形になっていたりします。

柿坂さんから感じるのは、そういうおもてなしではありません。
あえて言葉にするとしたら「真心」が伝わってくる。


今回のリトリートでも、禊殿で参加者の皆さんと瞑想したいとお願いすると、何日も前から自ら土木作業着を着て泥まみれになりながら周辺をお掃除してくれているのです。

おん歳83歳。

最近は足が思うように動かなくなっている中でのそのような姿には心打たれます。


もちろんそんなことは一言も口にしませんし、誰も気が付きません。

僕はたまたまそんな宮司さんの姿を見てしまったから、こうして報告できています。

これが本当の人間力なのだと思いました。


向禅師も違うところで柿坂宮司のおもてなしの心を感じていたようでした。

そのことについて最終日の講話の中で、こんなことを話してくれました。

おもてなしという言葉には2つの意味があります。

ひとつは、「もてなす」という言葉の上に、「お」という接頭語を付けたもの。

これは誰もが知る「おもてなし」という言葉の意味です。

もうひとつは、

表なし。

表面的に作られたものではないという意味です。

表がないということは、裏もなくなります。

裏とは、たとえば見返りを期待する心の様なものです。

そうか

表無しか。

「おもてなし」というセオリーをやるのではなく、真心がそうさせるのだと。

それが伝わるのだと。



さて、柿坂宮司の真心はどこからくるのでしょうか……?

言うまでも、長年早朝から禊(みそぎ)の水行をして神殿で祈り神様の思し召すままに生きることを、日々あらたに誓い生きてこられた「献身」の生涯が、自ずからなる「おもてなし」の真心となったのだと感じています。

同じく私より10年上で、その人となりに惚れている妙心僧堂師家・雪丸令敏老師にも長年の禅修行への「献身」による境涯の素晴らしさを感じています。


心から惚れ込み、師と仰ぐことができるお二人に出会えたのは、まさに神仏の加護であり勝縁と感謝しています。

明治神宮参拝しました

2019年5月24日 at 20:46



気がつけば、2ヶ月以上もブログ更新を怠っていました。
相済みません。

ドイツ行き、ウッドデッキ作成等々で忙しく、つい休み癖がついてしまいました(^。^;)

さて、今日は何について書くかな……。

そうそう、この間東京に行って、明治神宮に参拝してきました。
青葉若葉の生い茂る森の中の広やかな参道をゆっくりと歩くだけで、心が晴れやかになりました。

御苑の池の花菖蒲はまだ蕾みでしたが、蓮の花が満開でした。
水面(みなも)の緑のグラデーションの美しいかったこと!




さて、参道入り口の明治天皇の御製ですが、

神の開きし道も、仏の開きし道も究極のところは同じで、
人為を離れた、ノーマインドの「あるがままの地平」でしょう。
そのあるがままをあるがままに素直に受け容れ、与えられた状況の中で誠を尽くす、マインドフルにジョイフルにベストを尽くすことが、「道をひらく」ことだと思います。

天河神社で神主経験もある阿部ちゃん(阿部敏郎氏)に
「神道の真髄って何?」と聞いたら、
「はらえたまえ、きよめたまえ」と言うことでしょうと。

つまりは、心の浄化ですね。

坐禅修行を長年やってきても、煩悩・妄想の心の汚れはなくなりません。たしかに「煩悩無尽」で尽きることはありません。

この頃は煩悩は無くならない命のマグマのようなもの、これも天からのプレゼントと受けとめ、否定するのではなく浄化し活かす工夫が大切だなと感じています。

命の燃焼度が低いからくすぶるので、何事も三昧になって完全燃焼すればよいのです。

でも、どうすれば完全燃焼の三昧の日々がおくれるのでしょうか???……


楽しいこと、心地よいこと、あるいは自分なりに意義ありと感じる善行をどんどんやる。

これが、今の私なりの解答です。


春彼岸会コンサートのご案内

2019年2月23日 at 09:36

          一般の方は、
        10時30分からのコンサートのみの入場でも結構です。


七十の手習い

2019年2月13日 at 23:27

    【風信帖、空海】


七十の手習いで書道を始めました。

人様に差し上げて喜んでもらえるような墨跡を書きたい。
我流ではなく基本の臨書からやってみたいと思い立ち始めました。

ネットで探していたら、たまたまホームページが充実していた浜松市内の仮名が専門の先生に入門しました。仮名、漢字、実用と欲張ってならっていますが実に楽しい。

「あるがままの命(気)の律動の自ずからなる表現」ととらえると、すべてに通じるなと思いました。

臨書は形を真似ね、またその精神を習うことにより、我を無くし心を純化し養うものだと感じています。

書道をとおして、話すこと、思うこと等、日常万般において、まだまだ心源の純一な命に深化していない混濁した自分が自覚されます。

禅、書、華、茶、俳句…と、道を楽しむ日本文化は素晴らしい!