臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
坐禅会、接心、オンライン接心、行事・イベントのお知らせ。                      

無限大を味方にしよう!

2018年9月12日 at 15:56

無限大の命を味方にしょう!

風水害に地震と、いたるところで災害が発生しています。
お互い無事に生活できているだけでも有り難いと感謝するこの頃です。

自然災害の多い日本ですが、人的災害は少なく、犯罪率(暴行、強盗、殺人等)はシンガポール、ルクセンブルグについで第3位の安全な国のようですし、犯罪件数も警察庁の統計によると近年は減少傾向にあるようです。
街でも親切な人ばかりだなと感心します。このような日本人の民度の高さは、誰もが口にする「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉が象徴しているようです。
 
「おかげさまで」は、目に見えない神仏やご先祖の大きな命に包まれ生かされて生きているという意味です。

「おたがいさま」は、この社会はもちつもたれつお互いに支え合って生かされて生きているという意味です。

空気・水・太陽・食物・建物・パソコン等々の自然の恵みや高品質の物、先祖・恩師をはじめ多くの日本人の誠実な努力の継承、さらに目に見えない不可思議な力と、「おたがいさま、おかげさま」の恩愛は限りがなく無限大(∞)です。
それに比べて、「私が、私の」と思う自分はたった(1)つの命です。

真実にして幸福な人生は、自分一己の力などとるに足りない、「おかげさま、おたがいさま」の大いなる命に「生かされている」という実感と感謝の気持ちが土台となります。

すなわち、一己の命からシフトして無限大(∞)を生きることです。無限大の命を味方にするわけです。

日本を代表する禅の哲学者・西田幾多郎は「宗教は個人の意識上の事ではない、それは歴史的生命の自覚にほかならない」と述べていますが、歴史的生命とは私たちを生かしめている無限大の命にほかなりません。

禅や西田哲学が世界的に注目されているのは、「生かされて生きている」という歴史的生命の自覚・感謝の心なしには、真実にして幸福な人生や社会はありえないからです。

佇まいの美

2018年7月18日 at 19:21
佇まいの美①

今年の2月28日、103歳で大往生された前方広寺派管長・大井際断老師は、たたづまいの美しい人でした。
本堂に出頭された時も、書斎でくつろいでおられる時も、あるいはその書かれた墨跡にも「佇まいの美」が感じられました。

老師の長寿の秘訣は、何よりも自然体の佇まいの美しさに集約されていたと思います。

弟子の私自身はまだまだ不作法で、「たたずまいの美しい老僧になる」ことが、これからの課題だと気づきました。
その気づきを促してくれたのが、「たたずまいの美学ー日本人の身体技法」(矢田部英正著、中公文庫)です。

最近読んだこの本は、まさに目から鱗が落ちるような内容でした。少し長くなりますが「佇まいの美」についての著者の文章を紹介しましょう。

 人間は時として花のように存在し、山のように存在することがある。身体という自然性を本来的に備えた人間が、風景という自然のなかへ溶け込んでゆくような存在のあり方、あるいは身体の中へ花や山といった自然を取り込んでしまったかのような印象を表出する身体のあり方、このような人間の存在様態を日本人は「風姿」という言葉で表現してきた。そこで描かれているものは「肉体の均整」にもとづく美感ではなく、姿勢・動作から表出される「存在の印象」である。
 これを形づくる身体的な根拠というのは、たとえば一片の「しぐさ」が伝えるところの心の細やかさであったり、坐っている後ろ姿から無言の内に放たれる「存在の重み」であったり、歩く姿や挨拶の仕方からにじみ出てくる「慎ましい態度」や「忠実な想い」などである。



著者は、日本人としての文化の継承に、「型」の訓練により「感覚」を伝承してきた日本人の「身体技法」の体系が多くを担ってきたと述べています。

そこで次回は、禅が伝承してきた型について考察してみたいと思います。

赤ちゃんの魂に帰ろう!

2018年6月20日 at 17:47
   赤ちゃんの魂に帰ろう!


禅の修行は何かを得たり、特別な人になることではありません。

逆に、一切を放下し捨てる道です。
ああすべし、こうすべしの価値観、世間体、評判、名誉や地位へのこだわり等々…、一切のあれこれの思いから自由になる道です。

本来の魂の輝き・原初の生命力をさえぎり覆っていた心の重荷をなくすことです。

つまり赤ちゃんの魂に帰ることです。

20代を通して自宅出産の助産師をし出産アドバイザーをつとめたのち、オメガ・インスティテュートを共同創設。ホリスティック医療、心理学、異文化アート、スピリチュアルなアプローチで、国際的に知られているエリザベス・レッサー女史が※TEDで素晴らしい講演をしていますが、多くの赤ちゃんの誕生に立ち会って、彼女はこう確信していると言います。

人は唯一無二の価値を持ってこの世に産まれ、誰もが「魂」と呼ぶべき輝きをはなっている。

その自分の魂の輝きをおおい隠さずに、全ての魂の輝きを見つけることが新生児からのメッセージ。

産まれるときは誰もが「あるがままに産まれる」。


禅は、心しずかに「あるがままの命」に落ちつき、
本来の唯一無二の魂の輝きをとりもどし、赤ちゃんの無邪気な輝く魂に帰る道です。


※真の自分を語り、真の他者を見いだすとは「エリザベス・レッサー」
http://digitalcast.jp/v/25678/

I love you !

2018年6月16日 at 09:41
聴覚障害者赤ちゃんが、補聴器を使って生まれて初めて母親の声を聞いた時の心が温まる瞬間
https://youtu.be/f7GuSVCho9A


I love you !

愛が、愛の言葉がどんなに大切か

感動ですね。

合う歓び

2018年6月14日 at 14:35

「ねむの木子守歌」
https://www.youtube.com/watch?v=fE_pMJnQGA8&list=RDfE_pMJnQG


ねんねの ねむの木 眠りの木

そっとゆすった その枝に

遠い昔の 夜の調べ

ねんねの ねむの木 子守歌

……



今、飯田公園ではネムノキが満開です。
美智子皇后陛下が高校時代に作詞されたという「ねむの木子守歌」のとおり、
ゆらりゆらりと風にゆれる淡紅色の花の下に寝っ転がり、
その甘い香りにつつまれると、いつしか心地よい眠りに誘われます。

夜になるとゆっくりと葉を閉じることから「眠りの木」が転じて「ネムノキ」になったといわれています・
ネミノキの漢名は「合歓木」(ごうかんぼく)で、夜になると葉を合わせるように閉じる習性から、中国では夫婦円満の象徴とされ、これにちなんで花言葉は「歓喜」、「胸のときめき」だそうです。
夫婦にかぎらず、ネムノキは「合うことの歓び」を教えてくれているようです。

人の生きる歓びは、「合うことの歓び」に極まっているように思います。

家族、友人、恋人、師、自然、音楽や絵画の芸術作品、良書、食べ物等々…

人生至るところに「出会いの歓び」があります。

坐禅会のお知らせ

2018年5月30日 at 10:50

天地自然を師とする

2018年5月20日 at 00:12

    【飯田公園にて】


太上(たいじょう)は天を師とし、
其の次は人を師とし、
其の次は経(けい)を師とす。


最上の人は「天地自然」を師と仰ぎ、その次は「尊敬する人」を師と仰ぎ、更にその次は「教え」を師とする。

佐藤一斎の『言志四録』にある言葉です。


二十歳の頃から師と仰ぎ50年間参禅を続けてきた大井際断老師が遷化され、師と仰ぐべき人をなくしました。

71歳にもなれば、仰ぐべき師がなくて当然かもしれません。
しかし、禅の「己事究明」、己がどう生きるかを究明し続けることは生涯のテーマであり、師と仰ぐべきものから学ぶ姿勢は大切です。その意味で、大井老師は永遠の求道者でした。

師をなくして、
「さて、これからどう生きるか…」と考えたとき、ふと思い浮かんだのが佐藤一斎のこの言葉で、「天地自然」を師と仰ぐことにしょうと思いました。

芭蕉や西行のように、てくてくと歩き旅をしながら、自然にとけこみ自然を己が心として養い俳句や歌を作れたら最高でしょうが、せめて、散歩やハイキングで自然に親しもうと思っています。

庭仕事も土や植物等の自然が相手ですから、日々親しく自然に学ぶつもりで、無理はせずコンスタントに作務をすることにしました。
「天地自然を師とする」と決めると、
学ぶべきことが限りなくありそうです(^0^)

Blog

2018年5月14日 at 12:06
「ゆく川の流れは絶えずして」

ブログのテーマがなかなか思いつかず
気分転換に近くの天竜川のほとりまで歩きました。

ゆったりと流れる川面をながめていて
ふと思い浮かんだのが、方丈記の有名な冒頭の一文です。

鴨長明の時代も、AI時代といわれる現代も
方丈記の根底にある「諸行無常」の真理に変わりはありません。

『世の中にある人とすみかと、またかくのごとし』とあるように

ここ浜松市内も、あちらこちらでいつの間にか建物が壊され空き地になっています。
この頃は、私自身が老僧となってきたせいか
亡くなった人のことを思い起こすことが多くなりました。
近年、師匠の大井際断老師と弟弟子の良さん、そして母親が他界しました。
30年ほど前、祥光寺に移ってきた頃にお世話になった総代さんや近隣の老僧も
ほとんどお亡くなりになりました。

世の無常、人の命の無常を思うにつれ
今日一日生かされて「在る」ことが有り難く感じられ
一日一日を愛おしみ大事に生きようとの思いを深くしています。

そこで始めたことが、一日の予定と課題を明記することです。
朝起きれば、まずストレッチや簡単な気功で身体をほぐしてから坐禅をし
今日一日の命をどう使うか白紙にむかって考え、墨筆で一日の予定と課題を明記しています。
おかげで 一瞬一瞬 一日一日を、心源の神仏と直結して、あるがままの命を充実して暮らすことが出来ているように思います。




充実の一日

2018年5月9日 at 17:29
充実の一日



早朝坐禅会の茶礼で、バリスタ・もっちゃんの美味しいコーヒーをいただきながら楽しく語り合ったあと、
浜松市美術館に「The日本洋画150年展」を観に行きました。

地方の美術館としては豪華な内容で、黒田清輝、林武、藤田嗣治、梅原龍三郎、佐伯祐三、岸田劉生、青木繁など、日本洋画の名作を間近に鑑賞することができました。

特に、佐伯祐三の「パリの裏街」、林武の「赤富士」、向井潤吉の「春ー杏花の村」など、迫力の大きなキャンバスに描かれていて感動しました。

そのあとのランチは肴町のBeige(ベージュ、中区連尺町313-5、Tel:053-457-0188)で、私はライスバーガー、愛ちゃんはカレーライスを食べました.
発酵玄米と有機野菜の料理で、特に発酵玄米のもちもちした甘みと旨みの滋味豊かな味が、身体も喜んでいるようでとても気に入っています。

もう歳なので、
「無理せず、心地よく、気分良く過ごす」のが日々のコンセプト。
今日は、
早朝坐禅会、もっちゃんのスペッシャル・コーヒー、名画、美味しいオーガニックのランチと、心地よい超充実の一日でした(^0^)

言霊ー言葉の力

2018年5月2日 at 22:00
言霊ー言葉の力

「ムーブ君……」、「赤信号さん……」、「柱さん……」

この頃、身のまわりの物の名前を呼んで声をかけることを始めました。

すると、あら不思議!
まるでその物が生き物のように親しく大切に感じられるようになります。

仏教は「無我」を説きます。
無我、すなわち自我のとらわれをなくすことは、心を解放して「生かされ生かしつつある」縁起の場に踊りでることです。

私たちは、元々まわりの人や自然や物との関係性において生かされているのに、多くの人は自我意識のとらわれがあって、その豊かな交流を閉ざして、生きるエネルギーを枯渇させてしまうのです。

まわりの物に親しく声をかけその名を呼ぶことで、今までは何も感じなかった物が、命をおびて立ち現れ、自ずと感謝の気持ちがわいてきて心も解放されます。

いつも動かず真っ直ぐ立っている本堂の「柱さん」には、尊敬の念さえ覚えます。

名前を呼ぶって、すごい力があるようです。まわりじゅうの物が、自分を支えてくれる心強い味方になるのですから。


高野山真言宗管長の松長有慶師は、『密教』(岩波新書)において空海が次のような主旨をことを述べていると仰っています。

「現象世界で発せられ声も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれであり、名もその本源的な声とつながる。だから名も単なる符丁ではなく、名を呼ぶことは実在を動かすことになる」と。

また、柿本人麻呂の有名な歌に、
「しきしまの 大和の国は 言霊の さきはふ国ぞ まさきくありこそ」(この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)とあるように、言葉には霊力があると万葉の昔から信じられてきました。

美しい言葉、力強い言葉、祝福・賛嘆の言葉で、まわりの人や自然や物に呼びかけ、いや栄えの幸多き人生を招来しましょう。