臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
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自己の定義

2018年9月27日 at 07:16



人は誰でも自分の人生を小説を書くように描き、そのストーリーを日々の生活で実現しています。

ただ漫然と生きているだけという人は、ただ漫然と生きるというストーリーを選択していますし、大リーガーになるという明確なストーリーを描いた人は、結果はどうあれそのストーリーの実現に向かって日々努力するわけです。

実際の人生はすでに出来上がった小説ではありませんから、本人にもどう展開していくか分からない面白さがあります。


流動的で予測しがたい実人生を力強く前向きに展開していく原動力となるのが、現在から未来に向けて、自分が何者であろうとするのかという自己定義と気迫です。


経営学の泰斗・ドラッガーは『マネージメント』において、「われわれの事業は何か」を問い、その時々で事業内容をしっかりと再定義することがマネージメントの根本であると説いています。
事業体と同じく個人も、「自分は何者か」という自己定義を明確にし、自分の人生を自分自身でコントロールしマネージすることが、日々愉快に活き活きと生きる原動力になります。

その力強い推進力がないと、お節介な人や組織の干渉、あるいはマインド・コントロールで、主体性のないお仕着せの人生になってしまいます。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾はいくなり(西田幾多郎)」の、お互いに自由で自立した人生でありたいものです。

自己定義と言っても、難しく考えることはありません。

「孫に好かれる、可愛いばーばー」でも、素晴らしい自己定義です。
大事なことは、縁のある周りの人たちや社会を、より良くハッピーにするような定義であることです。


ドイツに禅の布教に行きはじめた頃、瀬戸内海の海にかかる美しい虹をみて、ふと思いついた自己定義が、

「Rainbowzenmonk,レインボー・ゼン・モンク」(虹の禅僧)です。

禅の道で、日本とドイツの架け橋であろうと決意した時でした。

この自己定義を基に、自分が何をすべきかの課題も明確になり、おかげでドイツ人兄弟弟子と参禅を通して友情を育みながらの充実した人生が展開しました。


この地球上でただ独りの自分の自己定義は、人生の節目節目において、自分の肚で決めていかねばなりません。

そのためには、坐禅や瞑想で、社会からも離れた孤独な地平に身をおき自己に沈潜して、自分が何者であろうとするかを自分自身に問う作業が不可欠です。


さて、「貴方は何者」であろうとしていますか?


臨済禅師のメッセージ

2018年9月19日 at 22:31


禅の修行を続けても何も特別に得るものはありませんが、

ただ生きるのが楽になります。

なぜなら、自分も人様も良い悪いと解釈しジャッジすることが少なくなるからです。


臨済禅師の究極のメッセージは

「自分の好きなように生きよ!」ということです。

ということは周りの人にも、
「どうぞお好きに生きてください」ということになります。


「好きに」ということは、

「ああすべし、こうすべし」「あれはいけない、これはだめだ」という是非の判断がほとんど入らないということです。

禅は、無我無心の脱思考で、一瞬一瞬を肚の直感で生きるのを最高の生き方だと説き、そのために脱思考の無になる訓練である坐禅・参禅修行をするのです。


幕末・明治維新の英傑の一人勝海舟は剣禅一如の達人ですが、自身の来歴や人物評など縦横無尽に語った時事談話集『氷川清話(ひかわせいわ)』は実に痛快な本で、こんなことを言っています。

行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。

人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない。

世間は生きている。理屈は死んでいる。


皆さん、是非の価値観や理屈にとらわれず、

もっと気楽に、自由に、大胆に生きましょう。

無限大を味方にしよう!

2018年9月12日 at 15:56

無限大の命を味方にしょう!

風水害に地震と、いたるところで災害が発生しています。
お互い無事に生活できているだけでも有り難いと感謝するこの頃です。

自然災害の多い日本ですが、人的災害は少なく、犯罪率(暴行、強盗、殺人等)はシンガポール、ルクセンブルグについで第3位の安全な国のようですし、犯罪件数も警察庁の統計によると近年は減少傾向にあるようです。
街でも親切な人ばかりだなと感心します。このような日本人の民度の高さは、誰もが口にする「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉が象徴しているようです。
 
「おかげさまで」は、目に見えない神仏やご先祖の大きな命に包まれ生かされて生きているという意味です。

「おたがいさま」は、この社会はもちつもたれつお互いに支え合って生かされて生きているという意味です。

空気・水・太陽・食物・建物・パソコン等々の自然の恵みや高品質の物、先祖・恩師をはじめ多くの日本人の誠実な努力の継承、さらに目に見えない不可思議な力と、「おたがいさま、おかげさま」の恩愛は限りがなく無限大(∞)です。
それに比べて、「私が、私の」と思う自分はたった(1)つの命です。

真実にして幸福な人生は、自分一己の力などとるに足りない、「おかげさま、おたがいさま」の大いなる命に「生かされている」という実感と感謝の気持ちが土台となります。

すなわち、一己の命からシフトして無限大(∞)を生きることです。無限大の命を味方にするわけです。

日本を代表する禅の哲学者・西田幾多郎は「宗教は個人の意識上の事ではない、それは歴史的生命の自覚にほかならない」と述べていますが、歴史的生命とは私たちを生かしめている無限大の命にほかなりません。

禅や西田哲学が世界的に注目されているのは、「生かされて生きている」という歴史的生命の自覚・感謝の心なしには、真実にして幸福な人生や社会はありえないからです。