臨済宗方広寺派 祥光寺住職向令孝(こっさん)が、いま風の時代に"いまここ道場"スタッフと共に、禅の心をお伝えしています。
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坐禅会のお知らせ

2018年5月30日 at 10:50

天地自然を師とする

2018年5月20日 at 00:12

    【飯田公園にて】


太上(たいじょう)は天を師とし、
其の次は人を師とし、
其の次は経(けい)を師とす。


最上の人は「天地自然」を師と仰ぎ、その次は「尊敬する人」を師と仰ぎ、更にその次は「教え」を師とする。

佐藤一斎の『言志四録』にある言葉です。


二十歳の頃から師と仰ぎ50年間参禅を続けてきた大井際断老師が遷化され、師と仰ぐべき人をなくしました。

71歳にもなれば、仰ぐべき師がなくて当然かもしれません。
しかし、禅の「己事究明」、己がどう生きるかを究明し続けることは生涯のテーマであり、師と仰ぐべきものから学ぶ姿勢は大切です。その意味で、大井老師は永遠の求道者でした。

師をなくして、
「さて、これからどう生きるか…」と考えたとき、ふと思い浮かんだのが佐藤一斎のこの言葉で、「天地自然」を師と仰ぐことにしょうと思いました。

芭蕉や西行のように、てくてくと歩き旅をしながら、自然にとけこみ自然を己が心として養い俳句や歌を作れたら最高でしょうが、せめて、散歩やハイキングで自然に親しもうと思っています。

庭仕事も土や植物等の自然が相手ですから、日々親しく自然に学ぶつもりで、無理はせずコンスタントに作務をすることにしました。
「天地自然を師とする」と決めると、
学ぶべきことが限りなくありそうです(^0^)

Blog

2018年5月14日 at 12:06
「ゆく川の流れは絶えずして」

ブログのテーマがなかなか思いつかず
気分転換に近くの天竜川のほとりまで歩きました。

ゆったりと流れる川面をながめていて
ふと思い浮かんだのが、方丈記の有名な冒頭の一文です。

鴨長明の時代も、AI時代といわれる現代も
方丈記の根底にある「諸行無常」の真理に変わりはありません。

『世の中にある人とすみかと、またかくのごとし』とあるように

ここ浜松市内も、あちらこちらでいつの間にか建物が壊され空き地になっています。
この頃は、私自身が老僧となってきたせいか
亡くなった人のことを思い起こすことが多くなりました。
近年、師匠の大井際断老師と弟弟子の良さん、そして母親が他界しました。
30年ほど前、祥光寺に移ってきた頃にお世話になった総代さんや近隣の老僧も
ほとんどお亡くなりになりました。

世の無常、人の命の無常を思うにつれ
今日一日生かされて「在る」ことが有り難く感じられ
一日一日を愛おしみ大事に生きようとの思いを深くしています。

そこで始めたことが、一日の予定と課題を明記することです。
朝起きれば、まずストレッチや簡単な気功で身体をほぐしてから坐禅をし
今日一日の命をどう使うか白紙にむかって考え、墨筆で一日の予定と課題を明記しています。
おかげで 一瞬一瞬 一日一日を、心源の神仏と直結して、あるがままの命を充実して暮らすことが出来ているように思います。




充実の一日

2018年5月9日 at 17:29
充実の一日



早朝坐禅会の茶礼で、バリスタ・もっちゃんの美味しいコーヒーをいただきながら楽しく語り合ったあと、
浜松市美術館に「The日本洋画150年展」を観に行きました。

地方の美術館としては豪華な内容で、黒田清輝、林武、藤田嗣治、梅原龍三郎、佐伯祐三、岸田劉生、青木繁など、日本洋画の名作を間近に鑑賞することができました。

特に、佐伯祐三の「パリの裏街」、林武の「赤富士」、向井潤吉の「春ー杏花の村」など、迫力の大きなキャンバスに描かれていて感動しました。

そのあとのランチは肴町のBeige(ベージュ、中区連尺町313-5、Tel:053-457-0188)で、私はライスバーガー、愛ちゃんはカレーライスを食べました.
発酵玄米と有機野菜の料理で、特に発酵玄米のもちもちした甘みと旨みの滋味豊かな味が、身体も喜んでいるようでとても気に入っています。

もう歳なので、
「無理せず、心地よく、気分良く過ごす」のが日々のコンセプト。
今日は、
早朝坐禅会、もっちゃんのスペッシャル・コーヒー、名画、美味しいオーガニックのランチと、心地よい超充実の一日でした(^0^)

言霊ー言葉の力

2018年5月2日 at 22:00
言霊ー言葉の力

「ムーブ君……」、「赤信号さん……」、「柱さん……」

この頃、身のまわりの物の名前を呼んで声をかけることを始めました。

すると、あら不思議!
まるでその物が生き物のように親しく大切に感じられるようになります。

仏教は「無我」を説きます。
無我、すなわち自我のとらわれをなくすことは、心を解放して「生かされ生かしつつある」縁起の場に踊りでることです。

私たちは、元々まわりの人や自然や物との関係性において生かされているのに、多くの人は自我意識のとらわれがあって、その豊かな交流を閉ざして、生きるエネルギーを枯渇させてしまうのです。

まわりの物に親しく声をかけその名を呼ぶことで、今までは何も感じなかった物が、命をおびて立ち現れ、自ずと感謝の気持ちがわいてきて心も解放されます。

いつも動かず真っ直ぐ立っている本堂の「柱さん」には、尊敬の念さえ覚えます。

名前を呼ぶって、すごい力があるようです。まわりじゅうの物が、自分を支えてくれる心強い味方になるのですから。


高野山真言宗管長の松長有慶師は、『密教』(岩波新書)において空海が次のような主旨をことを述べていると仰っています。

「現象世界で発せられ声も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれであり、名もその本源的な声とつながる。だから名も単なる符丁ではなく、名を呼ぶことは実在を動かすことになる」と。

また、柿本人麻呂の有名な歌に、
「しきしまの 大和の国は 言霊の さきはふ国ぞ まさきくありこそ」(この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)とあるように、言葉には霊力があると万葉の昔から信じられてきました。

美しい言葉、力強い言葉、祝福・賛嘆の言葉で、まわりの人や自然や物に呼びかけ、いや栄えの幸多き人生を招来しましょう。