サザンカの花
街を歩いていると、今あちらこちらでサザンカの花が咲いています。
そこで、サザンカの花言葉を調べてみると、
「困難に打ち克つ」「ひたむきさ」だそうです。
花の少ない冬の寒さのなかで健気に咲く姿に由来しているようです。
道元禅師は、ひたむきにただひたすら坐ることが即ち悟りの境地だということで「只管打坐(しかんたざ)」の禅を広められました。
只管の中国語の意味は、「ほかのことに構わず、どしどしと」の意味。
サザンカの花に見習って、その時々で一番大切な事を、よそ事に気をとられることなく、雑念をまじえずどしどしとやりましょう。
禅寺でジャズを
2013年に初来日したプエルトリコ出身の父子によるラテン・ジャズ・トリオ、ネグロニズ トリオ(Negroni’s Trio)の第2回のライブツアーの最終日の演奏が祥光寺で開催されます。メンバーのJose Negroni(ホセ・ネグロニ)ピアノ、Nomar Negroni(ノマー・ネグロニ)ドラム、Josh Allen(ジョシュ・アレン)ベースが上質な音楽を届けます。
主催の「特定非営利活動法人浜松ミュージック・アート少年団」理事長・生田真也氏が祥光寺坐禅会のメンバーというご縁です。前座で和尚と真也氏が“ジャズと禅”について語ります。
※祥光寺でもチケットを取り扱っています。
入場料:全席自由 大人5000円 当日券6000円
学生2000円 当日券3000円
※祥光寺へのアクセスは「いまここ道場HP-祥光寺紹介」をご覧ください。https://kossan.org/70750/%E7%A5%A5%E5%85%89%E5%AF%BA%E7%B4%B9%E4%BB%8B/
浜松駅から老間バス停まで約30分、老間発浜松行きのバスの最終便は21時53分です。
真言三昧
真言とは、
梵語のmantraで、いつわりのない真実の言葉。密教で、仏・菩薩などの真実の言葉ということです。
私は、心の源(ソース、神仏)より出でて、また心源に回帰する、
あれこれの思い分別にとらわれない真実の言葉。あるがままの地平に着地して、自他ともに真実にして幸福に生きる心の筋力・原動力となる言葉ととらえています。
真言は、弘法大師・空海が虚空蔵菩薩の真言を100万回以上唱え、超人的な記憶力を授かったと伝えられるように、日々何回も唱えることで威力を発揮します。
何万回と唱え続けることで、心の土壌が深層から素晴らしく改良され滋味豊かになるわけです。
私たちが日常生活で簡単に唱えることができる真言は「アスモ真言」
「アりがたい、スばらしい、モったいない」の、感謝と賛嘆と畏敬の言葉です。
その他、「いってきます、ただいまかえりました、いただきます」など、自分も周りの人も元気にハッピーな気持ちになる言葉は真言といえます。大切なことは、心をこめ慈しみと愛をもって、発声することです。
70を超えると、健康寿命をいかに保つかが一番重要なテーマと思い、この頃、作務なんかで疲れた時は近くのスーパー銭湯によく行って身心をリフレッシュしています。
お湯につかって
「ああ、ありがたい!」
露天風呂から満月を拝んで
「ああ、すばらしい!」
食事をいただいて
「ああ、もったいない!」と小声で言います。
この「アスモ真言」をいつも言っているおかげで、限りない天地の恩愛、あるがままにただ在るところの浄福を、より深く感じるようになりました。
真実にして幸福な人生は、「アスモ真言」の感謝と賛嘆と畏敬をベースに生きるところにあります。
狂い咲き
諸君、狂いたまえ!
これから冬に向かうというのに、本堂前の大島桜が咲き出しました。
いつもなら3月中旬の春の訪れに咲き出すのですが‥‥
たぶん、この間の台風の潮風で一斉に葉が落ちきってしまったことと、11月とは思えないこの頃の暖かさが原因なのでしょう。
狂い咲きと言えば、
吉田松陰は「諸君、狂いたまえ。」と言い、自らを狂愚とよんだそうです。
「狂」は積極的に何事かを進み取り行動することに鋭く。
「愚」は逃げることを知らない馬鹿正直な人間という意味のようです。
まさに吉田松陰の生き方そのもを体現したかのような言葉です。
確かに、大きな成功をおさめた事業家や発明家は、どこか常軌を逸した狂ったような行動をしています。
平凡に安穏と生きるのも良いですが、
限りある人生、狂ったように生きるのも面白いかも知れません。
【追伸】
ブログ配信の文章がなかなか思いつかなくって困っています。
何か同じことばかり言っているようで(^。^;)
そこで今回からは、今週の禅語・名言というテーマで配信することにします。
直心是道場
直心是道場(じきしんこれどうじょう)
人生で師と仰げるような素晴らしい人に出会えるのは、とても幸せなことです。
感動をもって人に出会う。
その出会いの充実した楽しい一時は、思い出しても懐かしくうれしく、何よりも生きる励みとなり自分を成長させてくれます。
妙心僧堂で雪丸令敏老師に相見したあと、貴布祢の料理旅館でご馳走になったうえ京都駅までタクシーで送っていただきました。
親しくお側に居させていただいたのは数時間ですが、
「やっぱり、この老師は素晴らしい、師と仰ぐべし!」と思いました。
おそらく20代の雲水時代から今日までの約60年間、ほとんどが僧堂生活で一貫して修行を続けてこられたのでしょう。その刻苦の修行もさることながら、命直(いのちじか)づけの修行が徹底されていると感じました。
中学を出てすぐに大工修行に入り、縁あって二十歳の頃に出家し修行を続けられたようですから、知的に字面で学ぶより、身心一如の境地で命直づけの学びに徹底できたのだろうと思います。字面で多くのことを知って語れる人は多いでしょうが、語らずとも体得し実践している人は少ないものです。
タクシーの運転手さんよりも京都の道に詳しかったり、女将さんや仲居さん他多くの縁のある人のことを家族のように覚えていて「誰それはどうしてる?」と、気さくに親しく声をかけながらチップをはずまれる御本人は、雲水でも外出には着ないようなパッチワークの作務衣なのですから、自らは清貧にして利他行を楽しんでおられるのだと感心しました。
学は自得を貴ぶ。人いたづらに目を以て有字(うじ)の書を読む、故に字に局し、通透(つうとう)することを得ず。まさに心を以て無字(むじ)の書を読むべし、すなわち洞(とう)して自得するところ有らん。
ー南洲手抄言志録
天地自然の営みや人々の生活の現場は、
万巻の有字の書にまさる活きた汲めども尽きない無字の学びの書です。
その無字の書を読む秘訣は、
「直心是道場」と禅語にあるように、
素直で柔軟な物や人と一つに溶けあう心です。
坐禅は、数息観三昧あるいは無字三昧になって、心を純化・浄化して安楽の境地に至り、直心を養う行です。
自己の定義
人は誰でも自分の人生を小説を書くように描き、そのストーリーを日々の生活で実現しています。
ただ漫然と生きているだけという人は、ただ漫然と生きるというストーリーを選択していますし、大リーガーになるという明確なストーリーを描いた人は、結果はどうあれそのストーリーの実現に向かって日々努力するわけです。
実際の人生はすでに出来上がった小説ではありませんから、本人にもどう展開していくか分からない面白さがあります。
流動的で予測しがたい実人生を力強く前向きに展開していく原動力となるのが、現在から未来に向けて、自分が何者であろうとするのかという自己定義と気迫です。
経営学の泰斗・ドラッガーは『マネージメント』において、「われわれの事業は何か」を問い、その時々で事業内容をしっかりと再定義することがマネージメントの根本であると説いています。
事業体と同じく個人も、「自分は何者か」という自己定義を明確にし、自分の人生を自分自身でコントロールしマネージすることが、日々愉快に活き活きと生きる原動力になります。
その力強い推進力がないと、お節介な人や組織の干渉、あるいはマインド・コントロールで、主体性のないお仕着せの人生になってしまいます。
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾はいくなり(西田幾多郎)」の、お互いに自由で自立した人生でありたいものです。
自己定義と言っても、難しく考えることはありません。
「孫に好かれる、可愛いばーばー」でも、素晴らしい自己定義です。
大事なことは、縁のある周りの人たちや社会を、より良くハッピーにするような定義であることです。
ドイツに禅の布教に行きはじめた頃、瀬戸内海の海にかかる美しい虹をみて、ふと思いついた自己定義が、
「Rainbowzenmonk,レインボー・ゼン・モンク」(虹の禅僧)です。
禅の道で、日本とドイツの架け橋であろうと決意した時でした。
この自己定義を基に、自分が何をすべきかの課題も明確になり、おかげでドイツ人兄弟弟子と参禅を通して友情を育みながらの充実した人生が展開しました。
この地球上でただ独りの自分の自己定義は、人生の節目節目において、自分の肚で決めていかねばなりません。
そのためには、坐禅や瞑想で、社会からも離れた孤独な地平に身をおき自己に沈潜して、自分が何者であろうとするかを自分自身に問う作業が不可欠です。
さて、「貴方は何者」であろうとしていますか?
臨済禅師のメッセージ
禅の修行を続けても何も特別に得るものはありませんが、
ただ生きるのが楽になります。
なぜなら、自分も人様も良い悪いと解釈しジャッジすることが少なくなるからです。
臨済禅師の究極のメッセージは
「自分の好きなように生きよ!」ということです。
ということは周りの人にも、
「どうぞお好きに生きてください」ということになります。
「好きに」ということは、
「ああすべし、こうすべし」「あれはいけない、これはだめだ」という是非の判断がほとんど入らないということです。
禅は、無我無心の脱思考で、一瞬一瞬を肚の直感で生きるのを最高の生き方だと説き、そのために脱思考の無になる訓練である坐禅・参禅修行をするのです。
幕末・明治維新の英傑の一人勝海舟は剣禅一如の達人ですが、自身の来歴や人物評など縦横無尽に語った時事談話集『氷川清話(ひかわせいわ)』は実に痛快な本で、こんなことを言っています。
行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。
人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない。
世間は生きている。理屈は死んでいる。
皆さん、是非の価値観や理屈にとらわれず、
もっと気楽に、自由に、大胆に生きましょう。
SNS