ブログ (風のたより・Zen Breeze)

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2018年9月27日 : 自己の定義



人は誰でも自分の人生を小説を書くように描き、そのストーリーを日々の生活で実現しています。

ただ漫然と生きているだけという人は、ただ漫然と生きるというストーリーを選択していますし、大リーガーになるという明確なストーリーを描いた人は、結果はどうあれそのストーリーの実現に向かって日々努力するわけです。

実際の人生はすでに出来上がった小説ではありませんから、本人にもどう展開していくか分からない面白さがあります。


流動的で予測しがたい実人生を力強く前向きに展開していく原動力となるのが、現在から未来に向けて、自分が何者であろうとするのかという自己定義と気迫です。


経営学の泰斗・ドラッガーは『マネージメント』において、「われわれの事業は何か」を問い、その時々で事業内容をしっかりと再定義することがマネージメントの根本であると説いています。
事業体と同じく個人も、「自分は何者か」という自己定義を明確にし、自分の人生を自分自身でコントロールしマネージすることが、日々愉快に活き活きと生きる原動力になります。

その力強い推進力がないと、お節介な人や組織の干渉、あるいはマインド・コントロールで、主体性のないお仕着せの人生になってしまいます。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾はいくなり(西田幾多郎)」の、お互いに自由で自立した人生でありたいものです。

自己定義と言っても、難しく考えることはありません。

「孫に好かれる、可愛いばーばー」でも、素晴らしい自己定義です。
大事なことは、縁のある周りの人たちや社会を、より良くハッピーにするような定義であることです。


ドイツに禅の布教に行きはじめた頃、瀬戸内海の海にかかる美しい虹をみて、ふと思いついた自己定義が、

「Rainbowzenmonk,レインボー・ゼン・モンク」(虹の禅僧)です。

禅の道で、日本とドイツの架け橋であろうと決意した時でした。

この自己定義を基に、自分が何をすべきかの課題も明確になり、おかげでドイツ人兄弟弟子と参禅を通して友情を育みながらの充実した人生が展開しました。


この地球上でただ独りの自分の自己定義は、人生の節目節目において、自分の肚で決めていかねばなりません。

そのためには、坐禅や瞑想で、社会からも離れた孤独な地平に身をおき自己に沈潜して、自分が何者であろうとするかを自分自身に問う作業が不可欠です。


さて、「貴方は何者」であろうとしていますか?



2018年9月19日 : 臨済禅師のメッセージ


禅の修行を続けても何も特別に得るものはありませんが、

ただ生きるのが楽になります。

なぜなら、自分も人様も良い悪いと解釈しジャッジすることが少なくなるからです。


臨済禅師の究極のメッセージは

「自分の好きなように生きよ!」ということです。

ということは周りの人にも、
「どうぞお好きに生きてください」ということになります。


「好きに」ということは、

「ああすべし、こうすべし」「あれはいけない、これはだめだ」という是非の判断がほとんど入らないということです。

禅は、無我無心の脱思考で、一瞬一瞬を肚の直感で生きるのを最高の生き方だと説き、そのために脱思考の無になる訓練である坐禅・参禅修行をするのです。


幕末・明治維新の英傑の一人勝海舟は剣禅一如の達人ですが、自身の来歴や人物評など縦横無尽に語った時事談話集『氷川清話(ひかわせいわ)』は実に痛快な本で、こんなことを言っています。

行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。

人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない。

世間は生きている。理屈は死んでいる。


皆さん、是非の価値観や理屈にとらわれず、

もっと気楽に、自由に、大胆に生きましょう。

2018年9月12日 : 無限大を味方にしよう!

無限大の命を味方にしょう!

風水害に地震と、いたるところで災害が発生しています。
お互い無事に生活できているだけでも有り難いと感謝するこの頃です。

自然災害の多い日本ですが、人的災害は少なく、犯罪率(暴行、強盗、殺人等)はシンガポール、ルクセンブルグについで第3位の安全な国のようですし、犯罪件数も警察庁の統計によると近年は減少傾向にあるようです。
街でも親切な人ばかりだなと感心します。このような日本人の民度の高さは、誰もが口にする「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉が象徴しているようです。
 
「おかげさまで」は、目に見えない神仏やご先祖の大きな命に包まれ生かされて生きているという意味です。

「おたがいさま」は、この社会はもちつもたれつお互いに支え合って生かされて生きているという意味です。

空気・水・太陽・食物・建物・パソコン等々の自然の恵みや高品質の物、先祖・恩師をはじめ多くの日本人の誠実な努力の継承、さらに目に見えない不可思議な力と、「おたがいさま、おかげさま」の恩愛は限りがなく無限大(∞)です。
それに比べて、「私が、私の」と思う自分はたった(1)つの命です。

真実にして幸福な人生は、自分一己の力などとるに足りない、「おかげさま、おたがいさま」の大いなる命に「生かされている」という実感と感謝の気持ちが土台となります。

すなわち、一己の命からシフトして無限大(∞)を生きることです。無限大の命を味方にするわけです。

日本を代表する禅の哲学者・西田幾多郎は「宗教は個人の意識上の事ではない、それは歴史的生命の自覚にほかならない」と述べていますが、歴史的生命とは私たちを生かしめている無限大の命にほかなりません。

禅や西田哲学が世界的に注目されているのは、「生かされて生きている」という歴史的生命の自覚・感謝の心なしには、真実にして幸福な人生や社会はありえないからです。

2018年7月18日 : 佇まいの美
佇まいの美①

今年の2月28日、103歳で大往生された前方広寺派管長・大井際断老師は、たたづまいの美しい人でした。
本堂に出頭された時も、書斎でくつろいでおられる時も、あるいはその書かれた墨跡にも「佇まいの美」が感じられました。

老師の長寿の秘訣は、何よりも自然体の佇まいの美しさに集約されていたと思います。

弟子の私自身はまだまだ不作法で、「たたずまいの美しい老僧になる」ことが、これからの課題だと気づきました。
その気づきを促してくれたのが、「たたずまいの美学ー日本人の身体技法」(矢田部英正著、中公文庫)です。

最近読んだこの本は、まさに目から鱗が落ちるような内容でした。少し長くなりますが「佇まいの美」についての著者の文章を紹介しましょう。

 人間は時として花のように存在し、山のように存在することがある。身体という自然性を本来的に備えた人間が、風景という自然のなかへ溶け込んでゆくような存在のあり方、あるいは身体の中へ花や山といった自然を取り込んでしまったかのような印象を表出する身体のあり方、このような人間の存在様態を日本人は「風姿」という言葉で表現してきた。そこで描かれているものは「肉体の均整」にもとづく美感ではなく、姿勢・動作から表出される「存在の印象」である。
 これを形づくる身体的な根拠というのは、たとえば一片の「しぐさ」が伝えるところの心の細やかさであったり、坐っている後ろ姿から無言の内に放たれる「存在の重み」であったり、歩く姿や挨拶の仕方からにじみ出てくる「慎ましい態度」や「忠実な想い」などである。



著者は、日本人としての文化の継承に、「型」の訓練により「感覚」を伝承してきた日本人の「身体技法」の体系が多くを担ってきたと述べています。

そこで次回は、禅が伝承してきた型について考察してみたいと思います。

2018年6月20日 : 赤ちゃんの魂に帰ろう!
   赤ちゃんの魂に帰ろう!


禅の修行は何かを得たり、特別な人になることではありません。

逆に、一切を放下し捨てる道です。
ああすべし、こうすべしの価値観、世間体、評判、名誉や地位へのこだわり等々…、一切のあれこれの思いから自由になる道です。

本来の魂の輝き・原初の生命力をさえぎり覆っていた心の重荷をなくすことです。

つまり赤ちゃんの魂に帰ることです。

20代を通して自宅出産の助産師をし出産アドバイザーをつとめたのち、オメガ・インスティテュートを共同創設。ホリスティック医療、心理学、異文化アート、スピリチュアルなアプローチで、国際的に知られているエリザベス・レッサー女史が※TEDで素晴らしい講演をしていますが、多くの赤ちゃんの誕生に立ち会って、彼女はこう確信していると言います。

人は唯一無二の価値を持ってこの世に産まれ、誰もが「魂」と呼ぶべき輝きをはなっている。

その自分の魂の輝きをおおい隠さずに、全ての魂の輝きを見つけることが新生児からのメッセージ。

産まれるときは誰もが「あるがままに産まれる」。


禅は、心しずかに「あるがままの命」に落ちつき、
本来の唯一無二の魂の輝きをとりもどし、赤ちゃんの無邪気な輝く魂に帰る道です。


※真の自分を語り、真の他者を見いだすとは「エリザベス・レッサー」
http://digitalcast.jp/v/25678/



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